【講師コラム:木暮富美子】沖ヨガ・遅れてきた人間のつぶやき

1.沖ヨガの創設者、沖正弘師の若き日の姿

当時、こちらも新進気鋭の作家としてデビューした大江健三郎氏との対談の中で、こんな事が語られています。
Q(大江氏):「毎日どうように過ごしているのですか。」
A(沖師):「自分の人間改造に忙しい。毎朝3時に起きて、夜は12時まで思考と実践につとめる日課。」
まさに自己改造に忙殺された沖師のヨガ三昧の日々の様子がありありと伝わってまいります。

     こんな沖正弘師にお会いしたかった!!

沖師の目指すヨガとは?

Q(大江氏):「ヨガとはどんなものでしょうか。」
A(沖師):「頭の中でこねまわす理屈よりも、体の中の真実の働きの欲求に忠実になる哲学。とでもいいましょうか。」
Q(大江氏):「沖さんは日本でインドのヨガと同じ思想をひろめようとしていられるのでしょうか。」
A(沖師):「いいえ。」
即座に否定した答えが返ってまいりました。では、何を伝えようとしていらしたのでしょうか。
「インド・ヨガの沖式現代的解釈とでもいいましょうか。ヨガは確国とした一つの哲学である事がわかったんです。」
Q(大江氏):「沖さんの場合は…いわば沖思想ということでしょうか。」
A(沖師):「沖式うんぬんではなく、人間そのものをみつめるのがヨガの根本思想です。」

新しいヨガが沖正弘師の生命(いのち)のスガタを通して、具体的な衣をまとい、哲学として確立してゆく、その動的な(躍動)現場に居合わせたかった!!目の当たりにしたかった!!

沖達人の語る教育と指導の極意について

出典は『真智聖愛』第四章「真実の教育の発見」に掲載のお話から。
①「いかなる人、いかなる問題も拒否しません。すべてのものを肯定するところから教育が始まるからです。それが御縁だからです。」
②「教育は“お前が良くなるためになるなら私は死んでもよい”という態度、姿勢で望む事が大切である。」
③「即ち、“愛の教育”こそが相手自身にわからせる導き方なのである。」

極意とは、相手を尊び愛の態度で導く事なのですね。

④Q沖師は具体的にどの様な愛の態度をもって教え導いたのでしょうか。
A:盗癖のある小学4年生の男子の例。例え相手が小学4年生であっても、人間対人間の真心のこもった真剣勝負のやりとりがリアルに伝わってまいります。
(イ)子供の悪いのには大人にも責任がある。だから先生(沖師)はお前を叱る前におとなの代表としておまえにおわびさせていただく。
(ロ)ここからが沖師の真骨頂です。口だけではない具体的な態度でもおわびをしなければならないと語って、実際にろうそくに手をかざして焼き始めたそうです。
(ハ)子供はそれをみて先生許してくださいと自分が悪かった事に本当に気づくことが出来たのだそうです。

真剣勝負、真心勝負の沖先生に出会いたかった!!

こんな沖先生もいたのです!!

愛の態度が指導者としての生きた教育(指導)の根幹になければならないとする沖正弘師は恩義に対しても篤い人物でありました。ヨガ業書第2巻『ヨガに生きる』(霞ヶ関書房)より。奥様の沖マサ子さんの言葉を通して、そのあたりの消息を伝えてくださっています。「先生はきた手紙、ご縁のあった方の名刺、受講者の名簿は皆取ってあり、時々その方々の祝福を祈っております。沖師は、これまでの生涯の中でご縁を戴いた方々の名前を記した専用のノートをつくり、感謝おわび祝福祈願の行を瞑想中に行なっていらっしゃるのです」と沖マサ子さんは述懐しております。本当にすべてのご縁を大切にする生き方を実践された方だったのですね。
「宗教心とは、すべての人物を生かす心だ。生かす心が愛の心であり、感恩の心だ。無駄にしたり、捨てたり、不要なものを買ったりすることは、そのものを殺してしまうことだ。」

すべてを生かす心で実践行を行っている沖正弘師の無言の教え。“呼吸”に触れてみたかった!!息吹を感じてみたかった!!

遅れて来た人間のつぶやきは止まりそうにありませんが、如何でしたか。

2.沖ヨガのホームページを御覧になって下さっている貴方へ。

もしかしたら、ヨガにどっぷり浸かっていらっしゃるかた?それとも覗いてみようかな。ヨガをやってみようかな。ひと先ず情報収集を始められた方でしょうか。ヨガの扉を前にした貴方にお伝えしたい事があります。

①ヨガの創設者、沖師の人物像や目指されたヨガについて、いささかなりとも、御案内出来ていたら幸いです。沖師は存命中にたくさんの著書を著わしました。多数の講演を行い、海外でのご指導も世界各地、広域に及んでいます。ヨガの種まきをなさいました。遺されたものから、私達はたくさんの事を知る機会を与えられている事は事実です。
でも、遅れてきた人間として思うことがあります。語られていること 教えられていること 伝えられていること、本当に学びがいのある事柄ばかりです。真実に到る道の数々がここにはあるのです。でも、実はこの教えの数々は扉の前で、ショウウインドウから眺めていても解らない事柄に充ち充ちているのです。本ものに出会うには、その為のやり方があるのです。教えられた事を生きた智慧に作りかえてゆくのは、ご自分なのです。各自がその為にいばらの道を歩まねばならないという事なのです。本当にわかる為にやらねばならないことがたくさんあるという事なのです。
「修養と修行と修業をひとつにした人間訓練法であり、自己教育法がヨガの意味する処である。」と沖師は語ります。
②そして、もう1つ思うことは、薫育(くんいく)という言葉をご存知の事と思います。沖先生がヨガ指導者として活動をされていた時に、たくさんの教えを実際に受けることの出来た諸先輩の先生方が只今沖ヨガ協会には多数いらっしゃいます。
そのような諸先輩の先生方の血となり肉と化してカラダのなかに折り畳まれた教えの数々が存在します。
③生命にのなかに蔵われた生きた教えに出会うには?

そうなのです。扉の前に立った貴方へ。扉の前を通過してはいけません。そこで、止まり、扉を開ける事です。
そして…さらに前に進んで行きましょう!!
実践哲学としてのヨガと、その実践の教えに出会う為に。
そこにはたくさんのお仲間が待っています。